完璧帰趙について

四字熟語 | 完璧帰趙 |
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読み方 | かんぺききちょう |
意味 | 預かった大切なものを傷一つつけずに返すこと。 「璧」は宝石のこと。 古代中国の戦国時代、和氏の璧という宝石を持っていた趙の恵文王は、秦の昭王から十五の城市と交換するように要求され、藺相如が和氏の璧を届けに行ったが、道中で交換ではなく奪うつもりだと気づき、一度秦の昭王に奪われた後に、上手く言いくるめて取り返して趙の国に持ち帰ったという故事から。 「璧を完うして趙に帰る」とも読み、「完璧」という言葉の語源とされている。 |
出典 | 『史記』「藺相如伝」 |
「完」を含む四字熟語
完全燃焼(かんぜんねんしょう)
最後まできれいに燃え尽きること。 または、全ての力を出し切ること。
完全無欠(かんぜんむけつ)
足りない部分や短所などが全くないこと。 「完全」と「無欠」はどちらも不足や弱点が全くないという意味。 同じ意味の言葉を重ねて強調したもの。
完璧帰趙(かんぺききちょう)
「璧」を含む四字熟語
和氏之璧(かしのへき)
世に二つとない、極めて珍しい宝物のこと。 「和氏」は楚の卞和という人物のこと。 「璧」は宝玉のこと。 卞和が山中で宝玉の原石を見つけ、レイ王に献上したが、ただの石だと言われ罰として左足を切られた。 のちに武王に献上したが、同じくただの石だと言われ罰として右足を切られた。 のちに、卞和の話を聞いた文王がその原石を磨かせたところ、正真正銘の宝玉であったという故事から。
珠聯璧合(しゅれんへきごう)
才能のある多くの人材が一つのところに集まること。 または、結婚を祝う言葉。 たくさんの宝石が連なりあうという意味から。 「珠連璧合」とも書く。
寸陰尺璧(すんいんせきへき)
少し前に進み、進んだよりも多く退くこと。 または、利益よりも損害のほうが多いことのたとえ。 「寸」と「尺」は距離の単位で、一尺は十寸と同じ。 「寸陰」はほんの少しの時間。 「尺璧」は一尺の大きさがある宝石。 一尺の宝石よりも、ほんの少しの時間のほうが大切という意味から。
隋珠和璧(ずいしゅかへき)
この世に類をみない貴重な宝物のこと。 「隋珠」は随侯が贈られた宝玉、「和璧」は卞和が見つけた原石から磨き出された宝玉のことで、どちらも貴重な宝物のこと。 「隋珠」は「随珠」とも書く。
尺璧非宝(せきへきひほう)
時間は非常に大切なものであるということのたとえ。 「尺璧」は直径が一尺ほどある宝石。 一尺の直径がある宝石も時間に比べると大した宝物ではないという意味から。 「尺璧宝に非ず」とも読む。
束帛加璧(そくはくかへき)
最もよいとされる礼物のこと。 「束帛」は十反の絹の布。 「璧」は宝石のこと。 十反の絹の布の上に宝石をのせたもののことで、古代中国では最高級の礼物とされていたということから。
「帰」を含む四字熟語
異路同帰(いろどうき)
やり方が違っていても結果は同じになるということのたとえ。 違う道を通っていても、同じ場所に到着するという意味から。 「路を異にして帰りを同じうす」とも読む。
永遠回帰(えいえんかいき)
宇宙の全ての事象は永遠と同じものが同じことを繰り返しているということ。 「永遠」は終わりがない長い時間。 「回帰」は同じところに帰ってくるという意味。 この世は永遠に循環運動を行っていて、来世や前世というものは考えず、今の人生を繰り返していてもその生を肯定して、一瞬を大切にして生きるべきであるということ。 ドイツの哲学者ニーチェの根本思想であり、生への絶対的肯定。
永劫回帰(えいごうかいき)
「永劫」は終わりがない長い時間、「回帰」は同じところに帰ってくるという意味。 宇宙の全ての事象は永遠と同じものが同じことを繰り返しているということ。 この世は永遠に循環運動を行っていて、来世や前世というものは考えず、今の人生を繰り返していてもその生を肯定して、一瞬を大切にして生きるべきであるということ。 ドイツの哲学者ニーチェの根本思想であり、生への絶対的肯定。
解甲帰田(かいこうきでん)
甲を解いて田園に帰るという意味から、除隊や退官して故郷へ帰り平和に暮らすこと。
改邪帰正(かいじゃきせい)
悪い行いをやめて、正しいことをするように改心すること。
帰依三宝(きえさんぽう)
仏門に入り、仏教徒になること。 「帰依」は仏の教えに従い、信じること。 「三宝」は仏と仏の教え、それを布教する僧のこと。 「三宝に帰依す」とも読む。
「趙」を含む四字熟語
完璧帰趙(かんぺききちょう)
張王李趙(ちょうおうりちょう)
どこにでもいる普通の人のこと。 「張」、「王」、「李」、「趙」はどれも中国の名字で、どれも中国では珍しくなく、最もありふれた名字という意味から。
趙州先鉢(ちょうしゅうせんぱつ)
仏道の修行で大切なことは、普段の生活のように無駄なことをせずに、日々の勤めを励むべきであるということ。 「趙州」は人の名前で、中国の高僧。 趙州は粥を食べたら鉢を洗うように、鐘が鳴れば仏法を説くために堂へ行くように、いつも行うことをしっかりと行って余計な考えを差し込まないことが大切であると説いた。