「本質を見失う」に関連する四字熟語 — 38 件
「本質を見失う」に関連する四字熟語を一覧で紹介します。各四字熟語の読み方・意味もあわせて確認できます。全38件を五十音順に掲載しています。
四字熟語一覧(五十音順)
懿公喜鶴(いこうきかく)
大切にすべきものを軽く扱い、くだらないものを大切にしたために身を滅ぼすことのたとえ。 「懿公」は人の名前。 衛の国の懿公は、家臣や国民を大切にせず、動物の鶴を好んで爵位を与えて大切にしていたが、戦争になると兵隊は鶴に戦わせればよいと言って協力せず、懿公は身を滅ぼしたという故事から。 「懿公(いこう)鶴(かく)を喜(この)む」とも読む。
懿公好鶴(いこうこうかく)
大切にすべきものを軽く扱い、くだらないものを大切にしたために身を滅ぼすことのたとえ。 「懿公」は人の名前。 衛の国の懿公は、家臣や国民を大切にせず、動物の鶴を好んで爵位を与えて大切にしていたが、戦争になると兵隊は鶴に戦わせればよいと言って協力せず、懿公は身を滅ぼしたという故事から。
引喩失義(いんゆしつぎ)
都合のよいたとえ話や、悪い前例を持ち出して正しい意義を見失うこと。 「引喩」はたとえを引くこと。 「失義」は道理から外れること。 「喩(ゆ)を引きて義を失す」とも読む。
邯鄲学歩(かんたんがくほ)
他人の真似をしたがうまくいかず、自分自身の本来のものを忘れ、どちらもうまくいかなくなること。 「邯鄲」は中国の地名。 中国の戦国時代、燕の田舎に住む青年が趙の都の邯鄲に行って、都会の人たちの歩き方を真似しようとしたが、それに失敗して今までの自分の歩き方を忘れて這って帰ったという故事から。
邯鄲之歩(かんたんのほ)
他人の真似をしたがうまくいかず、自分自身の本来のものを忘れ、どちらもうまくいかなくなること。 「邯鄲」は中国の地名。 中国の戦国時代、燕の田舎に住む青年が趙の都の邯鄲に行って、都会の人たちの歩き方を真似しようとしたが、それに失敗して今までの自分の歩き方を忘れて這って帰ったという故事から。
玩物喪志(がんぶつそうし)
必要の無いものに夢中になって、大切なことをなおざりにすること。 「喪志」は本来の目的を忘れること。 物に執着すれば志を失くしてしまうという意味から。 「物(もの)を玩(もてあそ)べば志(こころざし)を喪(うしな)う」とも読む。
岐路亡羊(きろぼうよう)
進路や方針が多すぎて何を選ぶべきかわからなくなること。 または、学問の道が細かく分かれすぎていて、学問の根本を捉えにくいことのたとえ。 「岐路」は分かれ道のこと。 「亡羊」は羊を見失うこと。 羊が逃げ出し、大勢の人で追いかけたが分かれ道が多く、逃げられてしまったという話を聞いた楊朱は、学問も同じように様々なものに分かれすぎていて、それぞれ根本の部分は同じなのにそれを忘れ、理解できなくなっていると言ったという故事から。
刖趾適屨(げっしてきく)
無理に折り合いをつけたり、強引に物事を行ったりすることのたとえ。または、目先のことにとらわれて物事の根本をおろそかにすることのたとえ。 足と靴の大きさが合わないとき、足の先を切って靴に合わせるという意味から。 「刖」は切ること。 「趾」は足(足の先)のこと。 「屨」は靴のこと。 「趾(あし)を刖(き)り屨(くつ)に適せしむ」とも読む。
削足適履(さくそくてきり)
どうでもいいことに気を取られて、大切なことを忘れること。 または、大切なことと、どうでもいいことを取り違えて、無理に折り合いをつけること。 「削足」は足を削ること。 「適履」は履物の大きさが合うこと。 小さな靴を履くために、自分の足を削って大きさを合わせるという意味から。 「足を削りて履(くつ)に適(てき)せしむ」とも読む。
在邇求遠(ざいじきゅうえん)
人としての正しい道は身近なところに求めるべきなのに、人は遠いところにあるものを求めようとするということ。 親や年長者など相応に敬うなど身近なことから始めれば、結局天下はうまく治まるという孟子の言葉から。
舎近求遠(しゃきんきゅうえん)
近くに良いものがあることに気がつくことがなく捨ててしまい、遠くまで捜し求めること。 「舎近」は近くにあるものを捨てること。 「求遠」は遠くにあるものを求めること。
舎近謀遠(しゃきんぼうえん)
近くに良いものがあることに気が付かずに捨ててしまい、遠くまで捜し求めること。 「舎近」は近くにあるものを捨てること。 「謀遠」は遠くにあるものを求めること。
釈根灌枝(しゃくこんかんし)
「釈根」は根を捨てる、「灌枝」は枝に水を注ぎかけるという意味から、他の事に気をとられて物事の本質を忘れること。 または、問題の本質を調べることをせずに結果だけを問題にすること。
捨根注枝(しゃこんちゅうし)
他の事に気をとられて物事の本質を忘れること。 または、問題の本質を調べることをせずに結果だけを問題にすること。 「捨根」は根を捨てること。 「注枝」は枝に水を注ぎかけること。
舎本逐末(しゃほんちくまつ)
物事の根幹となる大事なことをいいかげんにして、必要のないことに関心を持つこと。 「舎本」は根本を捨てること。 「逐末」は末節を追うこと。 「本(もと)を舎(す)てて末(すえ)を逐(お)う」とも読む。
主客転倒(しゅかくてんとう)
物事の優先順位、重要性の大小、立場などが逆転すること。 「主客」は主人と客のことから、主な物事とそれに関係する物事のたとえ。 「転倒」は逆さにすること。 主人と客の立場が逆転するという意味から。
章句小儒(しょうくしょうじゅ)
経典の一つの語句や、一つの文字の解釈にばかりこだわって、経典に書かれている一番大切なことを理解しない人のこと。 主に愚かな儒学者に対していう言葉。 「小儒」はくだらない儒学者ということ。
照猫画虎(しょうびょうがこ)
本質を理解せずに、見た目を真似すること。 虎の絵を描くために、見た目が似ている猫を手本にするという意味から。 「猫に照らして虎を画(えが)く」とも読む。
枝葉末節(しようまっせつ)
あまり重要ではない些細なこと。 または、本質から外れたどうでもよいこと。 「枝葉」は木の枝と葉、「末節」は木の端にある節のこと。 どちらも木の幹と比べると重要ではないことから、些細なことのたとえ。
尋言逐語(じんごんちくご)
仏教の言葉で、経典の文字や言葉の解釈だけを考え、本質を理解しようとしないこと。 「言(げん)を尋(たず)ね語を逐(お)う」とも読む。
尋章摘句(じんしょうてきく)
些細なことばかりこだわって、全体的なものの見方ができないこと。 「尋章」と「摘句」は文章の一節を考えること。 文章や詩の語句を解釈することにこだわって、書物全体の意味や趣旨を理解できないという意味から。 「章を尋(たず)ね句を摘(つ)む」とも読む。
截趾適履(せっしてきり)
どうでもいいことに気を取られて、大切なことを忘れること。 または、大切なことと、どうでもいいことを取り違えて、無理に折り合いをつけること。 「截趾」は足のつま先を削ること。 「適履」は履物の大きさが合うこと。 小さな靴を履くために、自分の足を削って大きさを合わせるという意味から。
走馬看花(そうばかんか)
表面だけ見て、本質を理解しないこと。または、物事がうまくいって、誇らしそうにすること。 中国の唐の時代に、孟郊が科挙に合格したことを喜んで詠んだ詩の一節で、合格したことを喜び、町中の花を馬に乗って見て回ったが、馬に乗りながら花を見ても、花のことは理解できないという意味から。 「馬を走らせて花を看る」とも読む。
滞言滞句(たいげんたいく)
言葉にばかりこだわって、真理を理解することができないこと。 「滞」はこだわるという意味で、仏教語で仏典の言葉の解釈ばかりこだわることを戒めたもの。
多岐亡羊(たきぼうよう)
進路や方針が多すぎて何を選ぶべきかわからなくなること。または、学問の道が細かく分かれすぎていて、学問の根本を捉えにくいことのたとえ。 「多岐」は分かれ道が多いこと。 「亡羊」は羊に逃げ切られること。 羊が逃げ出し、大勢の人で追いかけたが分かれ道が多く、逃げられてしまったという話を聞いた楊朱は、学問も同じように様々なものに分かれすぎていて、それぞれの根本は同じなのにそれを忘れ、理解できなくなっていると言ったという故事から。 「岐(き)多くして羊(ひつじ)を亡(うしな)う」とも読む。
朝三暮四(ちょうさんぼし)
目先のわずかな違いや損益にこだわりすぎて、結局は同じ結果になることが理解できないこと。 または、巧みな言葉や話し方で人を丸め込むこと。 変化しやすく安定しないことや何とか生きていけるだけの生計のことをいう場合もある。 春秋時代、たくさんの猿を飼っていた宋の狙公は生活が急に苦しくなり、自身が食べる分もぎりぎりの状態で仕方なく猿の餌を減らすことにしたが、嫌われるのが嫌だったためにごまかすことにした。 狙公が「どんぐりを朝に三つ、暮に四つにする」と言ったところ猿たちが怒ったため、「それでは朝は四つに増やし、暮は三つにする」と言うと猿たちは朝の数が増えて喜んで納得したという故事から。
朝四暮三(ちょうしぼさん)
表面的なわずかな違いや損益にこだわり、結果が同じという本質を理解しないこと。 または、巧みな言葉や話し方で人を丸め込むこと。 変化しやすく安定しないことや、何とか生きていけるだけの生計のことをいうこともある。 春秋時代、たくさんの猿を飼っていた宋の狙公は生活が急に苦しくなり、自身が食べる分もぎりぎりの状態で仕方なく猿の餌を減らすことにしたが、嫌われるのが嫌だったためにごまかすことにした。 「朝にどんぐりを三つ、暮に四つにする」と言ったところ猿たちが怒り、「それでは朝は四つに増やし、暮は三つにする」と言うと猿たちは朝の数が増えて喜んで納得したという故事から。
読書亡羊(どくしょぼうよう)
重要なことを忘れて、他のことに夢中になること。 「亡羊」は羊に逃げられること。 羊の見張りをしていた二人の男は、一人は読書に、一人は博打に夢中になって見張りを忘れて、羊に逃げられてしまったが、逃げられたという点では、読書も博打も同じ罪であるということから。 「書を読みて羊(ひつじ)を亡(うしな)う」とも読む。
播糠眯目(はこうべいもく)
ほんの些細な問題が、判断の誤りに繋がることがあることのたとえ。 または、自分以外の働きによって、方向を見失うことのたとえ。 糠(ぬか)を撒き散らして、目をくらますことから。 「糠(ぬか)を播(ま)き目(め)を眯(くら)ます」とも読む。
買櫝還珠(ばいとくかんしゅ)
見た目が立派なだけで実質のないものを価値があるものとして扱うこと。または、重要なことをないがしろにして、本筋から外れたことを重要視すること。また、取捨選択を間違えること。 「櫝」は蓋のついた箱のこと。 見た目の立派な箱を買い、その中に入っていた珠玉を相手に返してしまったことから。 「櫝(とく)を買いて珠(たま)を返す」とも読む。
皮膚之見(ひふのけん)
物事の表面的な部分だけを見て、本質を捉えようとしない浅はかな考えのこと。 「見」は考えという意味。
本末転倒(ほんまつてんとう)
物事の重要な部分とそうでない部分を逆に捉えてしまうこと。 「本末」の「本」は大事なこと、「末」は取るに足らないこと。 「転倒」は逆さにすること。
望文生義(ぼうぶんせいぎ)
文字の印象だけで文章の意味や内容を勝手に判断して理解すること。 「文」は文字や語句のこと。 「義」は意味のこと。 「文を望みて義を生ず」とも読む。
亡羊之嘆(ぼうようのたん)
進路や方針が多すぎて何を選ぶべきかわからなくなること。 または、学問の道が細かく分かれすぎていて、学問の根本を捉えにくいことのたとえ。 「亡羊」は羊を見失うこと。 羊が逃げ出し、大勢の人で追いかけたが分かれ道が多く、逃げられてしまったという話を聞いた楊朱は、学問も同じように様々なものに分かれすぎていて、それぞれ根本の部分は同じなのにそれを忘れ、理解できなくなっていると言ったという故事から。
迷頭認影(めいとうにんえい)
本当に大切なことを見失ってしまい、その影にあたる大して関係のないものを探し続けること。 または、仏教で仏道を身につけることを怠って、経典の語句の解釈にこだわり続けること。 「頭(こうべ)を迷いて影を認む」とも読む。
目食耳視(もくしょくじし)
衣食の本質を忘れて、見た目の贅沢さだけを求めること。 「目食」は味を気にせずに見た目が豪華なものを食べること。 「耳視」は評判を気にして、たとえ似合わなくても高価な衣服を選ぶこと。 「耳視目食」ともいう。
目迷五色(もくめいごしき)
豊かな彩りに目を奪われ、実態が見えないこと。 「五色」は人が作った文明や、文化などの視覚的産物のこと。 華やかで美しい見掛けに惑わされて、物事の本質を見失う人をあざ笑う言葉。 「目(め)五色(ごしき)に迷う」とも読む。
爛額焦頭(らんがくしょうとう)
大切なことを忘れて、必要の無いことを重要視すること。 または、何かをするときに非常に苦労すること。 「爛額」は額が爛(ただ)れること。 「焦頭」は頭を焦がすこと。 火事のときに消火や救助をしてくれた人には感謝して、防火方法を教えてくれた人には感謝せず、加えて防火もしていなかったという故事から。 「焦頭爛額」ともいう。
